AI楽曲は「チート」なのか? BMSイベントの規約変更と、私がAIを使う理由について

こんにちは、楽曲・PV・サイトetc作成担当の「🔵おちあP」です。

先日、あるBMSイベントの運営から興味深いアナウンスがありました。「Suno AIなどの生成技術発展に伴い、BMSON形式での登録を一律禁止する」というものです。AIが出力したステムデータを用いればBMSONへの変換が容易であり、人の手による作品との判別が困難になる、というのがその理由でした。

運営上の公平性を保ちたいという判断自体は理解できます。しかし不思議なことに、「62進数BMS形式」での投稿は引き続き許可されていました。周知の通り、BMSONで作られたものをBMS形式に変換することは、既存のツールを使えば造作もないことです。つまり「AI楽曲の排除」という目的は、フォーマットを制限するだけでは論理的に達成され得ないのです。この矛盾した線引きが、今回筆を執ったきっかけです。

正直に言います。私にはゼロから作曲する能力も、センスもありません。しかし、「完成した音が、人の琴線に触れるかどうか」を判断する耳だけは持っているつもりです。 私がAIを使うのは、自分の中にある「表現したいメッセージ」を形にするためです。

AI楽曲制作は、決して魔法の杖を振るだけの作業ではありません。 私の活動初期に作った『ラベルを剥がして』という楽曲があります。 この曲は、「AI製か否かというラベルで判断せず、中身を見てほしい」という、まさに今の状況にも通じるメッセージを込めた楽曲でした。

当時はまだAIを制御する技術も未熟で、歌詞とスタイルタグを指定しては祈るように生成ボタンを押す、「ガチャ」のような作業でした。発音のミスも多く、思い描く歌声になかなか出会えない。100回以上生成を繰り返し、それでも完全に納得のいくテイクは録れず、最後は恥を忍んで「公開(後悔)」した記憶があります。 それほどまでに、当時の私には「伝えたいこと」があり、それを届ける手段がたまたまAIしかなかったのです。

あれから時が経ち、今は違います。「どのようなコード進行で」「どういう展開で」「どういう歌詞を乗せるか」を明確に指定し、十数回の試行で狙ったフィーリングに落とし込む。これは単なる自動生成ではなく、AIという不完全なパートナーへの「ディレクション(指揮)」に近い作業へと進化しています。
AIは過去のデータから最もそれらしいものを出力する「模倣の合成」であり、ゼロから全く新しいものを生み出すことはできません。だからこそ、そこに「入力(意図)」を与え、良し悪しを選別し、一つの作品として統括する人間の存在が不可欠なのです。
私が自らを「おちあP」と名乗る理由は、まさにここにあります。 私はゼロから音を紡ぐ「作曲家」ではありません。AIという演者の特性を理解し、指示を与え、最高のパフォーマンスを引き出して作品へと昇華させる「プロデューサー」なのです。

歴史を振り返ってみましょう。カメラが登場した当時、肖像画や風景画しか存在しなかった芸術界では「写真は邪道だ」「魂がこもっていない」と批判されました。しかし今はどうでしょうか? 写真には写真独自の技術があり、報道やSNSでの即時共有といった、絵画にはない社会的役割を担っています。 AIも同じです。新しい技術が登場するたび、古い価値観との摩擦が起きるのは歴史の必然なのかもしれません。

「AI楽曲はずるい」「手抜きだ」という意見も理解できます。しかし、それは「冷凍食品」と「一流シェフのフランス料理」を比べるようなものではないでしょうか。 AI楽曲は、誰でも手軽に形にできる冷凍食品のようなものかもしれません。一方で、ゼロから創り上げられた楽曲は、シェフが腕を振るったコース料理です。 そもそも、戦うグラウンドが違うのです。私はAI禁止のイベントに、AI作曲であることを隠して出場するつもりはありませんし、盗作をするつもりもありません。ただ、道具が違っただけ。自分の場所(YouTubeやブログ、SNS等)で、自分のメッセージを音楽として表明したいだけなのです。

AI楽曲を嫌うなとは言いません。新しい技術に対する拒否反応は人間として自然なことでしょう。 ただ、もしあなたがクリエイターなら、あるいはクリエイティブを愛する人なら、気に入らない作品に「Bad」をつけるような不毛なことに時間を使うのはやめませんか? その時間とエネルギーがあるなら、AIごときには到底作れない、圧倒的な作品を創って見せつけてほしい。 不満があるなら不毛な言動ではなく、作品で。 芸術(拳)で語り合いましょ。

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